a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

雨月物語(1953) - 艶かしい色気の出た日本映画の傑作

溝口健二監督。

白黒日本映画の名作である。映像美を追求しているのであるが、大衆娯楽要素もあるという妖美な作品である。

予告編では「文芸最高巨編 雨月物語」「今ぞ妖美の限りを尽くしてここに映画化」とかなり喧伝したようである。

二つの幻想の世界が提示されている。この世界の提示の仕方が、映像として非常に綺麗な作品である。朽木家の廃墟屋敷のシークエンスでは、ほとんど光のないようなぼやけたショットが続き、特に画面中央から淵にかけて徐々に光がなくなってぼやけていくような映像が流される。北野武監督が、任意のどの場面を切り取ってみても静止画として綺麗であるのが映画の理想と述べたことがある。この作品というのは、まさにその理想が現実のものになった作品だと私は感じている。

温泉のショットから妻がさされるまでの一連のシークエンスが秀逸で、本作を代表するものだと考えている。刺されて、一度たおれるがまた立ち上がってよろよろと歩くのだが、これが本来の死に方のような気がする。その奥では雑兵が食糧の餅を取り合っていざこざしており、その対比もまたよい。

朽木屋敷から脱走するシークエンスも、本作を代表するものである。段々と明かりが消えて行く構図や、雅楽の調べがふと遠ざかって行く様子、霊がはける構図まで、映画技術の示唆に富む。その後、男は彼の家でもう一度妻の幻影を見るのだが、そのシーンもよい。妻が薄暗い中で裁縫をするショットで終了するのである。

また、水の撮り方もすばらしい。琵琶湖を小舟で渡るシーンでは、靄がかかったなかを小舟が奥から手前へとゆっくり移動する。Andrei Tarkovsky監督は、一つの作品を撮る前にかならず観るようにしている作品の中で、この「雨月物語」を挙げている。本作を観れば、Tarkovskyにそう言わしめた理由もよくわかると私は感じていて、低いアングルからとる水面と、光が乱反射してきらめくバランスが非常に綺麗である。もっとも、Tarkovskyは感性が鋭いので、私とは異なる質と量をもって、本作に凄さを感じていたのだろうが。

温泉の淵のショットから、そのまま同形であることを利用して、枯山水の波紋のショットへと移行する技術など、映像の美しさが冴えまくっている映画である。

はっきりいって、大衆娯楽には必要のない要素というもの全てが、映画における芸術性であると私は考えている。本作の幻影をどう表現するかという飽くなき追求が、娯楽の一線を超えているため、大衆娯楽でもありながら、芸術に富むという芸当をなし得たのだろう。

危ない橋を渡れるので、女は男にはかなわないという趣旨の台詞がある。

最期、死んだ妻の台詞が長過ぎるようにも感じるのだが、ロマンチストでなければ、芸術的な作品はなりたたない。現実主義ではいけないのである。