Jon Lucas, Scott Moore監督。
アメリカは鷲とバドワイザーの国である。主人公である三人の21歳男の中で、泥酔する人間はJustin Chonである。彼が韓国系米国人である。泥酔する登場人物がアジア系であることが、作品の完成度を上げた。なぜそれが面白いのだろう。プロパガンダ映画で、支那を登場させて差別的に表現することと、本作は何が違うのであろうか。映画のストーリー展開に先立つ前提として、文化と時代を考慮することが有効なのではないかと着眼した作品である。
Justin Chonはスタンフォードの医学部生で、大切な面接を明日に控えている。そこに悪友が二人やってきて、泥酔させてしまう。泥酔したChonを自宅に返すというストーリーである。遊戯の頻度が多いという弁証法で、この映画は理解可能である。医学部の面接を合格する可能性が、遊戯によって現弱するという構造を持っている。そのそもそもの発端がHang Overで、これはストーリーが開幕してから8分程度で実現する。その流れについて、ストーリーの開始は悪友とChonの会話ではじまった。Chonはこのシークエンスにおける主人公で、悪友二人という偶然の投入で可能性が変化する。悪友に対してChonは、面接のためにクラブへは行けないと主張する。ここで、会話がなければ可能性は増えない。そのため会話がストーリー展開にもたらす役割はここにある。Tellerは、アメリカはバドワイザーの国だと説明し、飲まなければならないと説く。最終的には、いかないとファンファーレを鳴らすと言いはじめ、実際に鳴らす。そこではじめてChonは行くことを承認するのである。よって、Tellerはファンファーレを鳴らすことでストーリーを進行させたが、JPモルガン行きの決まっていた真面目なSkylar Astinでは絶対にストーリーを開始することができなかった。故に、人物と、その人物が性格・文化的に可能な発言内容とは、ストーリー展開の生理である。