沖田修一監督。
せっかく『横道世之介』で評価していたのに、何だかよく分からない作品を撮ってきた。
元々より、人間同士の価値観が折り合わず、なんらかの理解しあえない溝のようなものがあるというのが、本監督の醸していたコメディの原動力となっていた筈である。それが、本作ではおばさん達があっけなくその溝を飛び越えて、いい年をしてはしゃぎながら滝を見て、どうも綺麗にまとまりすぎている。具体的には、根岸遥子が「滝を見にいきましょうよ」みたいな事を終盤に言って、ひとりずつ根岸のいる方へと寝返っていくシーン。あの辺りで、その私の言うところの溝というものが超えられて行くわけであるが、あまりにも子供じみている。
但し、こうロケーション撮影に独特の光の勾配というか、映画ならではの光の贅沢さというものは決して悪くはないし、おそらく謎な題材で作品を撮りすすめてしまったのだろう。
時折、音楽の話であるが、思いだしたようなタイミングでモーツァルトを挟んで来るので、私としてはぶち切れる寸前なほどのミスマッチを感じたのであるが、最近の日本映画はなんとかならないものか。自分で作ったストーリーの文脈をシカトして、どうして300年以上昔のバロック音楽など流して満足できるものか。その感性を疑ってしまう。
作品最後、シューベルトの『鱒』で終幕しているのだが、作品のどこにも魚釣りの描写はない。『鱒』の歌詞は、本作とはまったく懸け離れたストーリーである筈だが、歌詞を理解して使ったのか、もしそうであれば何故マッチすると判断できたのか。荷台にゆられながら唐突に流れる『鱒』を聴いていると、日本人の安直な西洋信奉的な芸術追随性に、ため息が出る。