a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

The Next Generation (2014) - カップ麺が飛ぶ様子を見るだけでも、お買い得。

押井守監督。

全ての現代邦画が、というわけではないが、主人公たちの居る部屋がきたない。ただでさえ日本の間取りは狭いというのに。良く言えば狭い部屋がさらに狭い空間のように感じられる。しかし、本作においては、部屋が小さいというのに、遠近感覚が不明になるようなカメラワークも散見される。いかに狭い部屋であっても、現実には一定の広がりがあるので、その広がりを描写しないことは、映画としてよろしくないように思う。「現実の部屋をリアルに再現するために、小物を沢山配置するのだ」と言われても、リアルに再現しながらも奥行きの描写のあるカメラワークをすれば良いわけで、映画セットの現実感がカメラワークを制限するものではない。

部屋や風景に着目をすることはなく、全体を通して台詞が非常に多い。更に台詞の内容に注意していると、ストーリーの内容を説明していることが多い。つまりこれは、登場人物がストーリーを喋り伝えているものであって、映像はその付属した娯楽にすぎないのではないか。多くの邦画は、俳優が多くの台詞を持ち、ストーリーの内容を話して行く形式をとっている。おそらくこれは俳優にとっては楽な仕事で、カメラをまわして無言で感情やストーリーを伝えるよりは、公汎的に楽な仕事である。また演技が下手な俳優であってもその役目を果たす。そして作品にとっては、台詞によってストーリーを構築できてしまうため、カメラワークや演出に工夫をこらす必要はなく、映像や音楽により遊戯を入れられる。そこで本作は、役者同士が任務についての会話をするというショットを何度もつなぎ、その一方ではカップラーメンを銃撃の空中で飛ばし、江戸自体の地図を映像に取り入れたり、温泉宿で色気シーンを入れる。要するに、ストーリーを喋る行以外のショットは、すべて観客を喜ばせるためだけにやっている。

大衆娯楽とは、いかに本筋描写を簡略化して、遊戯に時間を割くかという工夫に他ならない。工夫が無ければ息をしないが、工夫があれば存続する。『Tokyo Tribe』のように人気俳優を集めるという形を工夫しても、通用する。

ところで、あるショットで右下に「PM9:22」と丁寧に入れてあった。近年ほかの映画でも、明らかにストーリーに対しては蛇足である、分刻みの状況設定が、当たり前のように入れられていることがある。これも現実感覚の付与のために、丁寧にやっていることなのだろうか。