Stanley Cubrick監督。
ベトナム戦争というテーマで、一体いくつの映画が撮られたことであろう。『プラトーン』は、ベトナム戦争の画面描写において右に出るものはいない映画であるが、『ランボー』はベトナム帰還兵の心理葛藤を描写する意味で最高の映画であった。同じテーマであっても、監督や脚本家によって何が描写されるかは異なる。その差こそが、映画の快楽であって本質であるように感じるのであるが。
Cubrickの後期作品は、すくなくとも悲劇として作られ、悲劇的に終わっている。本作も、きっと悲劇的なものを描写している。果たして何についての悲劇なのか。蹂躙されるベトナム市民のものか、それとも招集されたアメリカ青年たちのものか。どのように観ても後者についての悲劇である。アメリカ青年たちはどのようになってしまうのか、というストーリーを展開しているわけである。
おもしろい点は、悲劇は青年たちを取り巻く状況にあり、悲劇的なものは青年たちの心情や精神状態の中にあることだ。戦争自体が悲劇であることは火を見るより明らかで、故に自明すぎて面白みは無い。その悲劇的な空間に直面し、健康正常であった男児が心理的な病を抱えるというプロセスは、異質さを伴って画面の前まで浮上をして、そこに悲劇の哀愁を重ねる。これは観ていて面白い。だから、監督はこの点を重点的に攻めている。本作の前半部は、その後半部と悲劇として連続している。