a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

3-Iron (2004) - 多少特殊な世界観で、それがよい。

Kim Ki-duk監督

他人の留守宅へと勝手に上がりこんで、不法侵入以外は特に犯罪をすることなくただ居座る男。この存在自体が独特である。その男に、DVを受けている女が後を追っていくというストーリーが前半。この前半だけで、女が男に何を望むのかということが、大体判明するように思う。とはいっても、アジア圏における恋愛観であって、欧州のそれに通じるかどうかはわからない。『ブンミおじさんの森』の例があるように、アジア圏で欧州の映画賞を取るものといったら、存在しているのか存在していないのか、物理的に実在=不在な特性を持つ登場人物がいて、それが不在の境地にはたどり着けない実在の存在のみの人間を感化させていく内容が多い。

本作の映画後半では、男も女も不法侵入で拘留されて、女はDV家庭へ戻り、男は禁固される。その後男はよくわからぬ「精神的な」修練をかさねて実在=不在の存在として変遷していく。そして女を追いかけて行き、実在とも不在ともよく判別がつかない状態のまま、男と女が愛し合うというものである。まことに形而上描写の類である。

最後のショットで、その男と女が共に体重計に乗っていて、その針はゼロを指している。本作の冒頭で、それぞれの体重が示されるのであるが、それらを足したとしても体重計の針が一周してゼロに戻る計算にはならない。二人とも実在=不在の存在になったのだろうか。そうであれば、本作中に映画的描写はないけれども、女には一体何が起こったというのだろうか。

実在=不在の存在といったら、恋愛はそれを描きやすい題材である。たとえ近くには居なくとも、恋人の姿が脳裏から離れない。もしくは、死んだ親族の面影を忘れられないでいる。そういった状況において、彼らを霊魂か何かの実存在として引き出していくのが映画の説話機能なのだとしたら、映画の作用とは不在を実在にする事である。映画のうそも、不在を実在にする事にある。実在を不在にする事は、説話機能でもうそでもない。その逆のみ成り立つ。

『Passengers』は米映画で、登場人物は霊であるが、自らが霊であることを知らない。彼らが実在の人物に働きかけるということはなく、実在=不在の存在を許されているのではない。