a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Mad Max beyond thunderdome (1985) - 決戦のストーリー構造と遊戯構造を観る。

George Miller監督。

本シリーズの初作で、ドライビング映画でありそれゆえに面白かったのであるが、いまやドライバーの面影すらなくなってしまった。初作がすばらしいが故に連続的に続編が発生し、初作の面影を減衰していく姿は『ランボー』に通じるものがあるのかもしれない。要するに、社会的風刺としての社会派的面影から、ハリウッドの商業化へと変遷していく。ランボーは、アメリカで浮浪する孤独なベトナム帰還兵から、最終的にはベトナムとは直接ゆかりもない場所(アフガン)で銃を乱射するようになってしまうのだが。本作では、車を捨てて、サンダードームという決闘場で決闘するようになっている。

ハリウッドの商業化と述べたが、遊戯の変遷構造としてしまえば、全てが理解できるという説がある。しかし、その説の前に、ストーリー構造における決闘と遊戯を説明しておくために、ストーリーを説明する。

まず、砂漠を馬車で走っていたMaxは追いはぎに馬車を奪われる。そしてMaxは浮浪してある町につく。その街に盗品としてその馬車が売られているのであるが、さすがにこのストーリー展開は所見の観客でも読めてしまうだろう。ハリウッドアクション映画の雛形である。盗品の馬車を奪還しようとすると、浮浪者ゆえに拒否される。Maxは交渉し、決闘である男を殺せばその馬車を取り返せることになった。Maxは決戦場であるサンダードームへと赴く、、、

ストーリーの展開は、馬車を探索して発見するというストーリーから、一対一の決闘で勝つというストーリーへと変化している。これを、ストーリーがすり替わっているのか、ストーリーが展開して変遷しているのか、どちらであるか判断するかは難しい。馬車を取り戻すこと、還元すれば、古典的ストーリー展開である「自らの平穏な生活があり、敵によって奪われ、それを取り戻す」という展開を完全に踏襲しているのである。その平穏な生活を説話している道具が馬車であることはいうまでもない。馬車を取り返すというストーリーが設定され、馬車を取り返すために行うストーリーが、次々とすり替わりつつ二時間程の映画ができる。

ここで、アクション映画においては、肉弾戦もしくは剣・飛び道具による戦闘シーンが必須であるが、そのためには戦闘がストーリーに必須であるように展開することが普通である。つまり、馬車を取り戻すために、戦闘が必須となるようにする。その展開のためには、盗品の馬車を保有している者が、すくなくともコミュニケーションによって交渉不能でなければならない。なぜなら、交渉して済むのであれば戦闘は発生せず、戦闘が発生することは交渉不能を意味するからである。よって、相手は無法地帯であるか、排他的な独自の政治・規律・文化をもった独立した集団か、交渉不能な狂人もしくは動物・モンスター以外にはあり得ない。独立した集団の応用は、本作だけではなく、例えば『ピンク・キャデラック』に出現したギャング、『レッドブロングス』に出現したマフィアなど、ハリウッドで星の数ほどの映画があるに違いない。というのも、私は300作品以上の映画を観て、上記の分類を超えたハリウッドアクション映画を観たことが無いのである(2015.6.23現在)。特に、決闘という取り決め、もしくは決闘しなければならないような状況下という設定は、主人公と敵との死闘を確定化する。アクション映画であれば、死闘になるほどにドラマチックであるに違いないため、ほとんどの映画は例外なく、いつの時点かでは必ずといってよいほど決闘の状況下が発生する。

さて、交渉不能な相手のパターンは、いずれも遊戯との親和性が高い。遊戯については、一世紀半ほど前の良書、J.Huizingaの『遊戯について』を読めばすべてがわかる。遊戯とは、世の中一般の法規・規定のルールとは逸脱した、突然発生性の排他的な独自規律によって支配される空間と、その空間における対戦もしくは賭け事を指す。排他的な独自規律で成り立つ集団においては、その法規を遊戯に変遷させること、法規=遊戯の空間を創出することはたやすい。馬車を返してくれるように交渉すると、ある人間と決闘し勝利したら返すという、一種の戦闘遊戯にストーリーが目的変化する。その変化のためには、主人公が基本的にはより不利な立場となるその条件を飲むという条件が必要である。ストーリーはその後、決闘に移り、主人公は決闘を優位に進めてあと一歩のところで相手を殺すところまでいくが、人情故に殺害を拒否する。殺害を拒否することの代償として、ルーレットによって偶然的に決定される罰を受けることになるが、このルーレットによる賭博的なストーリー展開も、ストーリーそのものが遊戯的となっている証拠である。