a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

呪怨 終わりの始まり(2014) - 存在=非存在が日本で当たり前であることを観る。

落合正幸監督。

ブンミおじさんの森』で、アジアにおいて存在=非存在の人間が登場することが、文化的に受け入れられていることを先述した。東南アジアにおいてそうであるように、日本においても存在=非存在が当たり前のように受け入れられる。その証拠が、何作もの続編を作り続けている本作のシリーズである。

カメラワークは特筆する点がなさそうである。

奇妙で特徴的な音につれられて、登場人物が家のある部屋へと導かれていく。この導かれるという動作に、合理的感情は必要ないようである。実際に、七海という主人公は家に入ることすら怖がって躊躇していたにも関わらず、その「音」を聞いたとたんに、友人から勝手に離れて行動し、その音のする部屋の中まで入っていく。妥当な推量をすれば、家に入ることを怖がっていた人間が、そのような冒険心を持っているとは判断しがたく、故に感情描写として誤っている。

その誤差が作品の完成度を貶めるということはなく、感情を無視しても引きよせられる謎の存在、その無条件的存=非存在が成り立つという点が重要となってくる。

映画音楽の使い方としては、不協和音であるが判別可能な早いテンポを刻む音、それは旋律ではなく繰り返し配列的な音列であることが多い。一方、その音列が多用されているシークエンスの条件において、一瞬だけ音を無音とすることに、サスペンスを引き起こすための緊張の薄氷面を作ることができる。

霊になるようないじめられる子は、おかっぱ頭であることが多いが、これは別に存在=非存在におかっぱ頭が必要ということではないだろう。

知識を得ることが探偵ものであると『沈黙の森』を例にとったが、知識を得てもなお物事が解決しないことや、知識を得てもなお不明な存在があることがサスペンスである。