a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Hiroshima mon amour (1959) - 事件性の認識を観る。

Alain Resnais監督。

当時はさぞかし衝撃を生んだ作品であったであろう。フランス人が、日本に来て原爆について語っているのである。かと思いきや、後半はドイツ人将校のことを日本で延々と思い出して泣いて、最後はお互いのことを「ヒロシマ」「ヌベール」と呼ぶ。ここまで国際的という形容詞が似合う映画も珍しい。描きたい題材がたくさんあり、それぞれを明瞭に描く監督の意思を作品から感じる。やはり、描きたいものを極めて明瞭に設定していると、映画の出来は良い。

冒頭の15分と、それ以降は異なる題材を扱っている。冒頭は、広島に落ちた原子爆弾についての記録描写と、広島人ではないフランス人がその事件の過酷さを本当に理解することができるか否かの問答である。しかし、ふいに明るい笛の音楽とともに、恋愛の問答へと変わる。それまでの時間が15分弱であり、以後は広島の原子爆弾は関係がない。

登場人物は互いに感情を表現する。ストーリーは非常にゆっくりと、しかし突発的に進行しているようにみえる。登場人物の女は広島の街を、ふらふら、ふらふら、と歩き回っている。彼女は、自らが恋愛をしているという事件を認識する。そしてその事件を、男と女が互いに認識する。この事件性の認識で映画が成り立っている。すべてが認識の名のもとに成り立つので、必然と相手へと禅問答のような質問を促進させる。その結果、本作は上映されている間にずっと質問ばかりしている。

映画とは、ストーリーの展開が必要であるように思われるが、実際には事件性の認識のみでも継続させることができる。しかし、互いに認識はいくらでもするけれど、感情移入は決してしない。その点が、おそらく本作においては非常に大事なところ。

カメラワークも洗練されている。浴衣姿の女が、ベランダでコーヒーを飲み、寝ている男の下へと移動する。このショットは音楽とも絶妙に合って特にきれいであり、私は映画に舞い降りた奇跡のひとつであると信じている。