a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

City Lights (1931) - 目で見えないものが見えるという、映画の逆説を達成したことに対して。

Charles Chaplin as director

目で見えないものが見えるという体験は映画であれば一切期待することが出来ない。映画は映像で描写するのだから、映像で描写しないことは観えないと考えるのが普通である。だからこそ役者は表情の演技には余念がなく、本来はみえない感情を「観える」処置を施すのが仕事の一部であって、顔という仮面が役者の仕事場のひとつだろう。

だから、映画を視聴する際にはおのづから役者の顔に注目するのだが、本作において体験することができるラストシークエンスで、我々はVirginia Cherrillの手の平に注目しなければならない。Chaplinは強盗した金で(本当は強盗ではない気もするが、表向きは強盗になった)盲目の女に手術費用を出してやる。年月を経て出所したChaplinは放浪者のいでたちで歩いていると、女に再会する。女は手術のおかげで目が見えるようになっていたが、とても恩人だとはわからずに、放浪者の彼を笑いものにする。あまりにも不憫なので金をあげようと表に出て彼の手に握らせると、とたんに彼こそが恩人なのだとわかる、というシークエンスである。

自分で恩人であることをChaplinがcomming outしないのは当然なのだが、目で見て彼が恩人だとまったくわからなかった彼女が、彼の手を手にした時に一瞬でわかったというのが、すばらしいところである。盲人だった彼女は目で観てもわからないが、触覚であれば稲妻にうたれるがごとく一瞬でわかる。観客は盲人ではないがそこに感情移入できるので、つられて稲妻にうたれる。その一瞬、観客は画面を観ているのに感情移入できた時においては「画面を観ては居ない」。感動の舞台は手のひらの記憶にあり、意識は自らの手のひらに向かうからだ。くどいようだが、このラストにおいて観客は「観客」ではない。

監督は本来はわからない触覚を「観える」処置を施したのだから、これは貴重である。映画鑑賞において、逆説を考えられる映画は他に知らない。現代人は、映像に合わせて揺れるイスだの飛び出る3Dだのが味わえる体験型シアターによって、ますます見えるものも見えなくなるのではないかと、私は危惧しないでもない。本作は観た人はきっとそう思うだろう。感動という、映画鑑賞の一番の動機が、見れなくなるほど辛いものは無い。本作には、その一番の原点が確かに在る。