a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

CASSHERN(2004) - 観るよろこび、感じるよろこび。

紀里谷和明監督。

 原作漫画を知らないのでストーリーがよくわからなかった。ましてや世界観もわからなかった。どうも、これは戦争で退廃した未来世紀に人造人間が登場するという趣旨らしく、私はそこにゴジラのようなメタファーを感じたものである。昔、中沢新一の書を読んだ。『雪片曲線論』の一節である。そこに書いてあったものは、人間が破壊する自然や調和と、その破壊から創造される新存在。そして、その新存在が人間社会を破壊する。その新存在こそがゴジラである。破壊を通じてしか物事を創造することはできないという悲しい文明人の性を象徴したといったら良いのだろうか。キャシャーンの存在と彼が感じた葛藤に良く似ている。ただし、この観念の有無が映画の評価を決めるわけではない。

 本作の良さの根底にあるのは、圧倒的なイメージの豊富さである。それもCGの技術は今観ても参考になるほど良いものばかりなのである。CG技術は10年経てば観るに耐えない。しかし本作はCG技術を利用した生きた描写の域にあって、単に技術をひけらかしていない。一方で、ストーリーを描く気はない。確かにストーリーは在る。そしてストーリーに沿って展開もしている。しかし、ストーリーを描こうとはしていない。例えば、本作のあらゆるシークエンス(出来事)は時空間が滅茶苦茶である。それが、特に原作を知らない人々にとってストーリーをわからなくさせる原因になっている。結局、この映画はなにが言いたいのだと。いや、しかしストーリーを追うのではなく、作品自体を感じれば言いたいことがよくわかる。この作品には、反戦と平和という明瞭な思想があり、その意味でそれはいわば「反ゴジラ」にすら近いと、私には思うのだが。不思議である。おそらく原作の漫画の意図したキャシャーン-彼は人間とゴジラが戦うように蘇生体と戦う-と、本作が意味を持たせたキャシャーンは、まったく別の意味で用いているのではないか。私は原作を確認する気にもならない。映画がひとつの思想を明瞭に表現できたなら、原作の意図との整合性など別に良いではないか。CGに長け、監督の強い思いが伝わるなら、思想の片鱗すら持ち合わせない量産映画よりは絶対に良い映画である。きっと、写真の撮り方と色の使い方は、同年代の監督では世界中でトップクラスだ。このレベルの洗練された空間感覚を持つCGを映画で使えた監督が他にいたら、むしろ教えて頂きたい。

 ほぼCGで構成されながらも、戦場や家族肖像についてはホームビデオカメラで撮ったかのようにフラッシュバックで演出し、飢えた心をひたすらに強調する。反戦だけではなく、父子の関係もテーマである。残念なことに、この映画は特に後半からは反戦色を強める。もし、監督がこの点についてより我慢ができて、アクション映画の中で終始よい塩梅で反戦思想を混ぜていたら、すばらしい映画になっていた。この作品では、アクションと反戦思想が融合はせずに、その本来の性質からして互いに反発しあい、それが作品中で解決していないようにみえる。だから、後半からは中途半端という評価が似合ってしまう作品であり、ストーリーが把握しずらい第二の理由になっている。ストーリーが描かれなければ大衆は離れ、資本を得て次の作品を撮って重ねるという大切な経験が、このままでは紀里谷監督はとれない。最も才能がある人間たちの一人であろうのに、残念である。重要なのは経験を重ね、決して人生の中でそれを断絶させない事だ。北野武は最初下手だったが、どんどん撮ったから、結果として世界のキタノになった。私は本当は、21世紀邦画の未来は紀里谷監督に託したいのである。それは洗練された感覚と明瞭な思想を兼ね備えているからである。それが、彼の気の強さによって、もしかしたら彼は映画から離れていってしまうかもしれない。

(冒頭。東鉄也は亡霊となってもなお苦悩する。深い海をさまよう「ゴジラ」である。)

(終盤。反戦色を高らかに主張するが、この種のモノトーンシーンは普通のアクション映画にまず挿入されないという点で、独創的である。)

(終盤。絶妙な空間感覚とそれを描写し切るCG技術は、すぐ直前にモノトーンの戦争描写シーンがあったことを忘れさせてしまう。)