a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Cinema Paradiso (1988) - 映画への愛のいじらしさ

GIuseppe Tornatore as director

 映画の愛に包まれた作品である。監督の映画への愛が非常によく伝わる。『ミツバチにささやき』でも『SUPER 8』でも、監督の映画への愛は、登場人物の子供が抱く映画への愛として示される。いかにそれが純愛であるかを、子供の純粋さの中に投影するのは常套手段なのだ。

 いろいろな人のさまざまな愛の形が観れる。フィリップ・ノワレの映画への愛、若きサルヴァトーレの映画への愛。彼らは主人公だ。でも、観客の映画への愛も観れる。第一部では、むしろこの観客の愛の方が目立つ。『ノックアウト』を観て、劇場はアーバックルやチャップリンが殴られるたびに大爆笑で喝采を送る。そして小さい町の劇場に長蛇の列を作って何度でも観た。昔の人は映画館の中で映画を観る喜びに震えていたのである。今の日本の映画館は、野次も喝采も無ければ、爆笑もない。作品への声かけを忘れているからである。宣伝にのせられて作品を観ては、真顔で劇場をそそくさと出て行く。それは近年の作品のせいだろうか? 淀川長治が日本の劇場を懐古して、彼は神戸出身だけれども、昔は登場人物に声援や野次は当たり前であったと言った。変わったのは、観客の方である。映画への愛を無くしたのは観客の方である。

 ともあれ、それぞれの映画への愛を堪能できる作品である。

 第二章では青年のサルヴァトーレの恋愛が軸となる。

 第三章では村自体がまぼろしと化す。第三章はすごいなあ、恋した女もパラダイス座も、ローマで大成功した主人公は夢見心地になる。現実の故郷もどこか物語りめいていて、町全体が虚構の残り火のように見える。もう子供も持ってしまった恋人に、復縁を迫るような非常識も、それが夢見心地ならば平気でやってしまう。なぜサルヴァトーレは寂れた故郷に理想郷を重ねたのだろう。30年の間、彼は自分の思い出が現実との齟齬に打ち砕かれることを恐れて、故郷に連絡すらしなかった。それはシネマを愛したからではないだろうか。シネマを愛することが許された町だから、いつまでもそれは人の頭に理想郷として在るのだ。