a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

太陽の墓場(1960) - シネスコの最高の撮り方。

大島渚監督

 大島渚は本当に偉い映画人であって、あのJean-Luc Godardも認めているほどの独創性の塊のような人であった。北野武の作品は煎じ詰めると大島渚のフィルムの要素に帰着するような気すらさせられるのではないか。すなわち北野武が好きであればさかのぼって大島渚のフィルムも好きになれる可能性がある。あくまでも可能性の話である。

 シネマスコープの使い方で、大島よりもうまくあるいは独創的に撮れる人が居ない。そして彼の死後において世界中を俯瞰して撮れそうな人もいない。使い方において、雑多に多数人がいる場合のシネスコの計算され洗練された動きと、二人もしくは三人がいる場合のシネスコの空間感覚がやはりすばらしい。北野武シネスコは、主に二人もしくは三人を写す場合の大島のシネスコに非常に似ている。両端の画面が切れる位置に人を立たせることで中央に空間ができるあの独特なシネスコである。

 また、近年Jim Jermuschが『Only Lovers Left Alive』でドラキュラがおいしそうに血を飲むシーンがあるが、本作で女が飲んでいるシーンのがよほどうまくて、さらに自然なのだ。50年前の作品のが巧いことは実際にあるのだ。

 どのシークエンスをとってみても、他の監督に確実に劣ったシーンが見当たらない。大島の凄さである。この60年代にはGodardやTruffautのヌーヴェルバーグ全盛期で、一方で近隣ではIngmar Bergman、またFelliniも居て、世界中今とは比べ物にならないくらい強敵がひしめいていた。それでも大島は負けない、むしろ勝っている。

 こんなことは言ってよいのかどうかわからないが、終戦後の日本にはやはり地から這い上がる底力があった。今の安定した日本はきちんと二本足で立ってはいるが、その足は先人が建てたものであり、だんだんと古くきしみ始めている。しかし地面から泥だらけでも這い上がる方法がわからない。今、邦画を海外に売ろうとしても誰も買わないという、悲惨な情勢になりつつある。それは邦画が海外の作よりもつまらないからである。むしろアルゼンチンとか南米の映画の方が、観ているとよほど面白く、生き生きとして、かつ現代のハイテクもしくは電脳的な世界観を表現する努力をしているように見える。今の邦画は、これらすべての要素において新興国に負けている。ただ邦画のみを槍玉に挙げるのではなく、新規性という観点で観ればフランス映画もハリウッド映画も、かなりマンネリ化している。そうなれば、地から這い上がる段階にある国の映画が、新興国発展途上国において製作された映画が、一番期待できることになる。

 日本が成長の勢いが一番あった時代において作られた映画として、本作から私は勇気をもらう。

(飲むシーン)

(大多数が居るが、観客がどこに視線を合わせればよいのかわかる絶妙な配置になっている。シネスコの成功例である。)