a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Made in U.S.A (1966) - カリーナが世界になった時

Jean-Luc Godard : director

 

 

 『小さな兵隊』で登場したデンマーク出身の女優は、かなりの芋であった。スタイルは良いが、当時のヨーロッパの女優と比べてもアメリカの名女優たちと比較しても、よくなかったのはその低い声質であったと私は思う。お世辞にも、綺麗とは言い難い太い声。それは台詞を台無しにし、もしくは映画における言語の完成度を下げる可能性が十分にあった。演技が不自然であり、彼女がヨーロッパの女性の代弁者に必然になれたわけでもない。アンナ・カリーナは世界ではなかった。

 

 しかし、彼女はゴダールに愛された。決して名女優ではなかったものの、ゴダールが彼女のどの気性か身体部位を気に入ったのか私には判然としないものの、アンナ・カリーナゴダールの世界の中心になった。ここで初めて、彼女が世界になった。映画とは言語である、とおそらくゴダール本人は言うのだろうと思うから、彼女は世界になったのと同時に言語にもなった。図示すれば、カリーナ=世界=言語。

 本作において、ただひたすら喋り続けられ時間とともに漠然と流れていくように見える言語は、すべて記号であるが、世の中の事象を描写するのはカリーナの言語である。なんとすばらしいことか、その記号の力は強力であり、「リシャール・ポ××××」と人名をすべて定義しなくて良い。ここで、映画は自らが虚構であることを、一瞬放棄しているようにも見える。しかし、それでも虚構が続く(映画なのだから当然である)という、逆説が働き、ストーリーはその重力が反転する。そんな芸当は、1895年にキネトグラフが発明され、21世紀に至るまでにゴダールしか到達しえなかった。彼とよく対比されるトリュフォーも愛に満ちていたが、この点に全く到達していなかった。私は、これを監督による「愛の力」と呼びたい。監督が本気で女優を愛した時に、この力が発揮されると。それが、映画という世界の神が作り出す最もすばらしい業績である。

 

 

 

 

 さて、私はゴダールが大好きなので他の作品と比べようと考えているが、『アルファヴィル』、『気狂いピエロ』、『男性・女性』と流れてきて、本作になって格段に質が上がったのである。共通点としては、特異なシチュエーションを設定することで、世界に決して応対することができない人間の孤独を描く志向があり、文学に例えるならそれは散文的である。以後に『彼女について私が知っている二、三の事柄』、『中国女』、『ウイークエンド』と発表されていくが、どうも本作だけが特異点のようである。なぜかといえば、本作だけがいわば純粋詩に近いためである。映像の断片をつないでストーリーを構築していくという、つまりは映像が物語に一対一に対応していくような普通に健全な映画手法を、本作だけ採用していないからである。

 ある程度の時間によって明瞭にカットされるシークエンスは、どこか韻を形成するきらいがあり、またそのリズムは作品を成り立たせている。もしどれか一つが倍の時間を持つシークエンスになれば、本作が特有に持つ完成度が失われてしまうと私は断言できる。もちろん、いわば完全な純粋詩(つまり散文要素が0%である)が存在しないように、本作も全くストーリーに依存していないかといえばそうではないが、ただしそれに依存しなくてもフィルムとして成り立つことは注目に値する。その証拠に、フィルムの最後におこる無言がある。右翼も左翼も時代遅れと言いつつも、ではどうすべきかというフィルムの存在意義を明示する問いに対して、無言で答える。つまり、彼の世界に対応する台詞、言語が存在しないというわけで、散文にはならないということである。

 

 

 本人も本作のことを気に入っている筈で、『10ミニッツ・オールダー』のオムニバスの中にはシークエンスの一部を丸ごと引用しているほどである。(「予告されて死ぬのと、突然死するのは、どちらがいい?」「突然死だ」と答えた男が、カリーナに射殺されるシーン)

 また、後年の『アワーミュージック』においても、主題に対して無言で返す、本作で初めて開発されたこの手法を、監督自身が実践しているということもある。本作は記念すべき作品であり、ゴダールにおける金字塔である。誰がなんと言おうと、私はそう考える。

 

 この流れで、微妙に現代映画批判をして終わろうと考えるのだが、このゴダールの愛というものを現代映画のどれもが実践できていない。アンナ・カリーナは愛され、遂に映画の世界に変化したが、この神話を実現する監督が現れないことに私は苛立つ。映画監督は神ではなく、興行を繁盛させるサラリーマンに積極的に堕しているということである。

 邦画のトレンドは、女優でいえば広瀬すず有村架純北川景子など対して演技の上手くないいわば持ち上げられ女優もいれば、二階堂ふみのような映画志向女優もいるが、誰一人としてアンナ・カリーナほどに監督から愛されていない。どの作品を見ても、フィルムの中心に映る彼女らが、撮影者から心理的な距離を保っていることは、何となくわかる。というのも製作者と女優との恋愛は禁止というのは、もちろんハリウッドでも厳重に行われていたことであり、邦画においても徹底されている。その結果、興行は次の映画製作資金に如実に対応するという現実感を拭えず、彼女らは愛を語る以前に、その興行収入によって捨てられる。そして、現代映画はつまらなくなった。資本が無いからでは無い。愛が無いからである。監督と役者の間に愛が形成されないためである。