Alejandro González Iñárritu監督
監督はメキシコ出身である。以前『ダニエラ 17歳の本能』の項でも触れたとおり、2010年台はフランスやアメリカ合衆国などの、映画の歴史を牽引してきた国の出身者ではなく、新興国出身の監督の勢いがすごい。彼は本作において映画の数々の使い古された言い回しやCGを含む虚構を、すべて飲み込む別の虚構を提示しようとしているように見える。それこそ彼における"Virtue"と言える。
本作は、一見したらノーカットのように見えるが、ホワイトアウト、ブラックアウト、TV画面の挿入や昼夜時間進行などの休憩タイミングで適切にカットしている。おそらく10から20程度のショットによって構成されているのではないか。カットの技法という意味では歴史の最先端であり、もしかしたらこれ以上のカットの技法は映画技法上には現れないかもしれない。
話は変わるが、クレジットタイトルのデザインは、何をどう解釈してもJean-Luc Godardに酷似している。酷似している場合、それを剽窃と取るのかオマージュと取るのか、観客の立場から言えば厳密な線引きがつけられないものである。技法の多様性からおそらく監督はcinephileだと思うので、これはオマージュなのだろう。Godard好きの私の感性は、作品とは馬が合うわけだ。
技術的には、NYの野外をパンイチで早歩きする主人公に対するトラッキング・ショットに目を奪われた。もう一つコメントするとすれば、それは本作の世界観についてである。作中、シェイクスピアを絶叫すれば伝わると勘違いしている役者が現れたが、本作がシェイクスピアの作品ほどの重みを持たないのは、それが人生一般について叙述されているのではなく、かなり特殊な職業である役者、それも落ち目のハリウッド俳優の起死回生のブロードウェイ進出、というほとんど誰も経験したこともなければ、共感することもない人生の題材を選んだことにある。追い込まれた俳優は明らかに錯乱をしていたが、最後、彼はどうなったのか、娘が今度は錯乱し始めたのか(そう解釈するのが便利ではあるが)、謎を残している。その謎をあれこれと想像する楽しみも本作にはあるだろうが、錯乱なのか超能力なのか微妙なラインを提示することで物語を構築しようとする、監督の確かな実力を堪能していくのも手である。そのラインの不確かさこそ、本作の初めから終わりまで一貫する虚構なのであるから。