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a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Conical Intersect (1975) - 分解されゆく建物、その面白さを観る。

Gordaon Matta-Clark監督。

同年のパリ・ビエンナーレのために製作された作品を、映像記録とした作品。

ビルをひとつ解体することになる。半円状に切り取ったり、重機で切りくずしたりして、曲がった円錐のような形を作り上げる。その過程を記録しているのである。

映画との違いは、ひとつには人格性に対する描写ではないことで、本作の主眼は完成されゆく無機物にのみ注がれている。多少は、通行人が興味を示していることを示すショットが入る。切り取られた半月のスペースからカメラをストリートへと写すと、歩行者がカメラの方を見ているのである。もしくは、本製作の関係者へ、通行人がなにか熱心に話しかけて質問をしているようなシーンを入れる。しかし、人との関わり合いとはその程度のもので、基本的には建物が分解されていく過程にのみ、本作の興味が注がれる。

その結果、ハリウッド映画や最近の邦画のように、たとえ画面に興味のわかない観客にも、気を引くように演出を努力するような能動性をほとんど持っていない。芸術が一般的にかもし出している「興味のない人は無理に見なくてよい」という、去る者は追わずの信条が、本記録映画にも出ているのである。そのためか、私が本作を視聴した映写室には、最後まで見終えることはおろか、誰も入室して席に座ろうともしていなかった。

これは、商業性があるか否かに依存している性質かもしれないが、映画と芸術映像の違いは、ひとつには興味のわかない人に対する能動性がある。そのために、映画では、音楽の才能がない監督が無理に演出をがんばった結果、笑ってしまうようなミスマッチな映画音楽を作成するか、もしくは失笑するようなチープな音楽配合をすることがある。『滝を見にいく』という映画があり、シューベルトのドイツリートである『鱒』が流れた。その歌詞と映画ストーリーの不一致さに、失笑した経験がある。おそらく、旋律の雰囲気のみを借用したい意図だったのだろうと推測する。すると、能動性という観点では、彼はすぐれた映画監督であるといえる。もちろん、彼のそのさまざまな努力によって興行成績が上がればの話である。一方で、能動性のあまり芸術的・論理的な調和を犠牲にし、もしくは調和を逸脱することを正当化さえするのであれば、彼は良い芸術家にはなりえない。

ここに、映画と芸術作品の差異の根源のひとつがある。