a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Marie-Antoinette (2006) - 不妊に悩むマリー・アントワネットというまさかの展開を観る。

Sofia Coppola監督。

Kirsten Dunstは『メランコリア』を観たときに、あまりに意気地のない演技を感じて私は絶望をしたものであるが、本作においては非常に輝いてみえる。Sofia Coppolaとは息が合うのだろうか、推測の域を出ないが、おそらく要求されたことは女の素地的な性格を自由に演じることではなかったのか。この映画は非常に特殊である。冒頭から、子犬をかかえて窓に露で落書きをして取り巻きと談笑する様などは、まるで女子高生のようなのである。その点が、この映画における不思議の一つ。時代考証をした上で歴史上のマリーアントワネットを映すというよりは、若い女一般の思っている事や感じている事を描きたいように見えるのである。時代考証や衣装は、『バリー・リンドン』のような才能のある監督の本気の演出にはまったく敵わなく、衣装はどことなく歴史的真実味が無い。しかし、描きたいものが前提として非常に明瞭であり、しっかりと描けている点、佳作であった。そして前半半ばから、まるで現代の行きづまった夫婦を描くかのように、主人公が不妊で悩みはじめる。夫を夜の生活に篭絡することが、ストーリーになっていく。歴史映画であるにも関わらず、意味不明であり、その反面また非常に可愛らしい。

カメラワークは、移動撮影と特にパンが非常に下手くそ。黒澤明を観たら、まずその下手さがわかる。一方、カメラを定点固定して、役者をカメラに集結させたり、カメラに向かって正面に歩いて来させるという、どちらかというと特化するには珍しい手法に拘っているように見えた。しかし、大衆娯楽映画を誰でもが教科書的に実行できる撮影法でするよりも、ひとつ秀でた物があった方がずっと良いとは思わないか。推測の域を出ないが、父親が独創的な映画監督であった点、オリジナリティを実行するという事の重要性の認識が自然に出来るのかもしれない。

冒頭にフランスの館に来たKirsten Dunstは、入念に館の部屋を確認しては、満足したり訝しげに観察したりした。普通男の監督であれば、主人公が新しく来た館のシークエンスに、ここまでショットを入念に重ねない。男ならパッと二三ショット撮って終わり。悪く言えば非常にくどい回し方だが、明らかにこれは女の映画。

とりあえず観たら良い。