a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

VIDROS PARTIDOS (2012) - もはや劇を必要としない

Victor Erice 監督

 

 『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』に収録されている。

 本作には劇がない。あるテーマを描くために主題からフィクションのストーリーを展開する、あの劇である。もちろん今回もフィクションのストーリーを展開しているのだが、あまりの独創性に感服した。つまり、スクリーンテストを実施してヒアリングを行った時点ですでにテーマの描写は多視点的に完了しているのだと監督は理解したのである。その後に様々な装置を駆使して展開される劇は必要がない。その劇は、もはや21世紀になって使い古されたストーリーの展開に倣えば陳腐になることもあれば、そもそも展開すればするほどに虚構性が増し、嘘や脚色で塗り固められるほどに現実からは遠ざかる問題を孕んだあの劇である。監督は、ここでポルトガルを再びフィルムの中で現実に戻したと言える。

 一方でポルトガルから遠く離れて、日本のことを連想させなくもなかった。つまり小津安二郎の画面である。人物が話す様子を正面から固定カメラによって捉えるあの手法が、本作において違和感なく使用されているようにみえる。元々小津の画面というのは被写体を照明した際の顔の陰影にこだわったためカメラを動かせなかったのが起源であると、蓮實重彦が小津の撮影担当にインタビューをして判明したのだった。本作は被写体がどう光に捉えられるかまで意識していないように見えるので、これは厳密には小津の画面のようで小津の画面ではない。スクリーンテストの体という本作に唯一の虚構を示す様式であって、それ以上の意味合いはないだろう。とはいえ小津っぽさはある。