a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

ヒズミ (2012) - 日本版『気狂いピエロ』。音楽がその場を支配する。

園子温監督。

震災という状況設定と、ボート店の湖畔に沈みかけている家という象徴(もしくは記号とも呼べる)が、いまいち作品のストーリーにどう関わっているのかが不明である。なぜなら、染谷将太二階堂ふみも、親からの理不尽な暴力というものを溜め込んで、それ故に苦悩しているからである。その親は自らの節操のない恋愛や自堕落な生活によって、彼らにしわよせで暴力をふるう。その構図に震災という原因および理由は、特には見当たらない。いや、もはや無いのである。

本作においては、たとえ遊びの時間であってもそれが暴力に変わるように、会話も暴力に変わる。はたして染谷は100回ぐらいは殴られているのではないかと思うのだが、それらの暴力を溜め込んだ末に、彼は絶望するのである。彼が父を殺した後のシークエンス、あれは『気狂いピエロ』のピエロと完全に同じである。そのため、本作は日本版『気狂いピエロ』なのである。自らの正体がわからず、また状況を改善しようとしてもその状態は悪くなる一方で、その環境から逃げることができない。染谷にはボート屋という住処があるので、ピエロのように逃避行はできない。故に車は必要がないが、代わりにそのボート屋へと暴力を振るいに人物たちがやって来るのである。染谷の父親など、子供がいて煩わしいのであれば構わなければ済むようなところを、何度もわざわざやって来ては殴りに来る。そういった、定住するピエロのためのシナリオとして、本作の登場人物たちは居る。例外の登場人物は二階堂ふみぐらいだろう。

彼女も、理不尽に殴られ、その都度暴力をためこむ。彼女の場合は「恨みの石」という便利なバロメーターがあるので、本作における重要な象徴(もしくは説話機能)が、この恨みの石の量として還元されるだろう。彼女は、一方的に耽溺する染谷が自殺したと思い、愛する人間との意思不疎通もしくは裏切りによって、その暴力を溜め込みきってしまい、石を湖畔へと投げるのである。そして溜め込んだ暴力をすっきり開放したところで、染谷が現れるという。お決まりのメロドラマのようにも見えるが、彼女がちゃっかり暴力を開放して終幕するあたり、優しさのあるストーリーであると考えた。

本作の監督は、音楽の使い方に特色がある。あるシークエンスと、続く異なるシークエンスにおいて、それぞれ別の方向の音楽を終始かけているような印象であった。つまり、あるシークエンスでは陽気な主題で、続くシークエンスではペシミスティックな主題と、音楽の雰囲気によってシークエンスの方向性が絶対的に決まってしまうような、そんな使い方である。