Mel Gibson監督。
実は、この映画レビューシリーズのフィルムの一部は、民放の深夜放送から取って来ている。その放送では、「銀幕アキさま」という中田有紀が独身女であることを、唐突に自虐しはじめるコーナーが冒頭に必ずある。これは別にまったく映画レビューの内容とは関係ないのだが。
物議を醸すというよりも、解釈が不能に陥っている映画。
結構解釈がむずかしい映画である。更に倫理観や道徳感を超えて暴力的である。アメリカ映画の多くは、主人公が道徳的に脆弱で葛藤する性格である。ところが本作では、葛藤した後にPaparazziを主人公が撲殺した挙げ句、罪に問われることもなく終わる。もっとも混乱させられるのが、終幕直前において、同様のPaparazziが出て来た際、普通の映画であれば殴ってしまうところを、笑ってやりすごしたところである。主人公が微妙に悪魔的な存在である。 悪魔的というのは、キュルケゴールが著書「不安の概念」の中で説明していることとして、不連続な動きをする物を指す。以下は私の作った例であるが、ある物体がある場所から別の場所に飛んで行くとき、そこには物理法則があり、時間の経過とともに物体が場所から場所へと連続的に動いて行く。一方で不連続というのは、物事の合理的な連続性が欠けているものである。ある悪魔や化け物が、鑑賞者の方へ地面を蹴り、一定の速度でせまるように飛んで来る様が恐いのは、それが一般的な自然法則とは異なる動きをしているからである。 思考にも同じことがいえて、特にキュルケゴールであれば神学の観点での説明になるが、キリスト教義を一心に信仰せず、故に自己を信奉しすぎてさまざまな外の現象に対して迷信的になることは、悪魔的である。まさにこの映画における主人公は、心理的な連続性というものを欠いていて、ゆえに悪魔的にみえる。