Gordon matta-Clark製作
本作を観て思い浮かんだのは、『ルパン三世カリオストロの城』に登場した伯爵のラストシーンである。時計台の針の上で、なにかをするという発想が非常に似ている。
はじめ、時計台の台が画面いっぱいに映し出される。すると、左下から男がよじ登っていき、画面の上端を越えていってしまう。そこでカメラがティルトされる。彼はどうも時計の中心まで上ったようだ。その中心から水が流れていき、観客を驚かせる。彼はそこで洗顔をする。
その後、なぜか針に横たわり泡まみれになったシーンが挿入されるのだが、これが何のことを暗示しているのかはよくわからない。立派であるのは、最後にはカメラが引かれ、どこかの都市の中心街であることが示される。これは、日常における通常が通常ではなくなるような、かなり面白いことを実行しているのである。しかし、それが中心街を歩く誰にもおそらく気づかれないので、それは事件の属性を帯びてはいない。そのため、事件から発端するような、映画のストーリーとは異なる。
逆に述べれば、映画のストーリーは、事件性にかなり依存している。すると、本作を観て映画と言い切れないことからわかるとおり、通常が通常でなくなった事を、誰かが認識することで「事件化」させなければならない。事件化のためには、人間の登場が必須になる。