a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Hidden (2005) - 疚しさという感情の奔流を観る。

Michael Haneke監督。

 日常と感情の複雑な絡みの中で、疚しさは人が皆持っている複雑な感情になっている。それを映画で表現したならばシンプルに抽出することができるのではないか。この作品は、隠されたものを明らかにするという動機で作られたとしよう。

 そう考えると、本作には貧富の格差に対する西欧の罪の意識や、人種差別の意識はテーマとして提示されていたものの、それらは極めて一般的なものであり映画でなくとも教養として知っているレベルのもので、特段心に響くように伝わってこなかった。本作が伝えたかったのは、この疚しさではないだろう。一般的に知られている事象に対して、いまさら『Hidden』というタイトルをつけるものか。最もシンプルに伝わったのは鶏の断頭によっておびえる子供時代のジョルジュ・ローランの表情である。この個別的な罪の意識こそ、世間に隠されたものではないか。本作はこれを軸に撮っているに違いがない。

 彼はなんと世間だけではなく家族にすらそれを隠そうとして、それを妻に迷惑が及ばないようにするための行為だと言い訳をしたが、彼は明らかに自らの疚しさのために一貫して隠そうとした。なるほど疚しさとは理性とはかけ離れた事象であると台詞で暗示されていたが、その通りであるらしい。それらを看破したのは被害者であるマジッドの息子と、あらゆる深層心理を暴露する夢の世界だけだったようにも観える。それを妻も母親も、もしかすると当人すら理解していないという、この隠された現象にこそ本作がタイトルを付けたはずであるし、そこに視聴する動機があるわけだ。

 しかし、ジョルジュが疚しさを感じていたのは、実はマジットではなく、あらゆる意味で犠牲的だったあの一匹の鶏に向いていたのではないかというのが、私の感想である。

 蛇足であるが、夢によって自らの深層心理を知ってしまい、いいかげんに隠し通せなくなって妻に暴露するという構図は、『アイズ・ワイド・シャット』と似る。この原作であるシュニッツラーの短編を読んだら、非常に忠実な実写であることがわかる反面に、20世紀のドイツと21世紀になろうとするアメリカとの時代的錯誤がやけに目に付く。だから、この意味ではおそらく本作の方が上手に撮った。