a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

トラック野郎・一番星北へ帰る (1979) - 複数のストーリーが独立的に組合わさる。

鈴木則文監督。

俺はこれを撮るんだ、という気概を感じる作品。音楽は木下忠司で、彼は木下恵介の親戚である。使用された楽器は、三味線か琴か。会津若松へ舞台が移動した際、その地方の独特の民族音楽が映画音楽として使用された。これは、街が醸し出す雰囲気を音楽として観客に伝える属性のものである。形而上の音楽に分類される。街を五感で感じた登場人物が抱く感情か、もしくは街に感じる期待感である。これが、『I Am Legend』のようなゾンビタウンに赴くのであれば、当然のように重苦しい不快な映画音楽が使用されている。つまり、これは街の属性なのであるが、厳密には登場人物たちの抱く印象である街の属性である。もし、探検中に偶然に発見した街に入る際、その街の印象が無いのであるから、映画音楽は使用せずに無音にしておくことが正しい。

蓮實重彦は、どこぞやの対談かなにかで、物を投げながらパスし合うことで映画画面内に運動を取り入れていると指摘した。本作では、ビールをバーカウンター上で滑らせ合っている。幅の狭いカウンターのレール上を、よく正確に滑らせられたものだと感心する。これも画面に運動を意識的に取り入れた例である。そして、ストーリー展開には直接には関連がないが、単なる遊戯と分類することもできず、より芸術的な側面であるように感じる。遊戯とは、Huizingaの二世紀前に指摘した通り、周りの敵対関係を含む全ての関係の一時停止と、遊戯に即した新たな規則による支配である。『The Perfect Host』で主人公たちが打ったチェスが、PierceとCrawfordの主従関係をふいにリセットするものであったから、それにあたる。しかし、本作のバーカウンターにおいて、缶は主人公たちの関係をリセットするものではなかった。黒沢年男のすべらせた缶は、菅原文太によって拒否され、握りつぶされた上で返送される。この缶という単語を、好意という単語に置き換えてみるとよい。そこには、二人の関係性はリセットされるものではなく、むしろより物質的に描写されているのである。これが象徴的描写である。形而上のある感情の謂いを、形而下のある物質に置き換える。その感情の人物間での応酬の謂いを、そのまま物質に適応する。誰でも思いつくこの使用例は、結婚におけるエンゲージリングであろう。結婚したいという感情は、リングという物質にすべて移動あるいは吸収されてしまったものと見做し、相手はその物質を受け取るか受け取らないという物理的動作によって、感情を受け取るか受け取らなかったものと追認される。