a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Pulp Fiction (1994) - シネマスコープの教科書を観る。

Quentin Tarantino監督。

パルプ・フィクション」は非常に良くできた映画だ。

 つまらない単調な映画は、白紙の上に描いた非常に長い直線になることがある。そ れは、途中から観たら話の全貌がわからず、かと言って初めから線を追っても、単調なためにつまらない。「パルプ・フィクション」も白紙の上に書かれた非常 に長い線であるに違いないが、書かれたものは線ではなく、ひとつの円である。どの場所から観はじめても、次第に観客はそれが円周であるとわかり、直線のよ うな単調でつまらない物ではないことに気づく。そして、この映画の魅力に気づき、話の全貌を理解することができるだろう。この映画の円周の秘密がわかれ ば、観客はより本作を楽しみ、また映画のもつ魅力に気づける筈だ。

 平均的な映画よりも長い2時間半あるこの映画で、かくも終わりを作らない映画を作るということは、手法として難しくはないが、決して単純ではない。アカデミー賞の平等な批評能力を私は信じないが、本作は公表された年の脚本賞をとっている。

 実際にこの作品のファンは多いのだろうか? 本作が1994年にアメリカで公開され、すでに二十年が経過しているにも関わらず、本作に類似しているがより優れた「円形」の作品を、映画界は二十年間にわたって作ってこれなかったのだろうか?

 答えは、YESである。本作よりも優れた「円形」の作品は存在しない。

  私は最近、知人のうちの二人がこの作品のファンであることを改めて知った。一人は二十代後半で、もう一人は三十代前半である。彼女らになぜ本作が気に入っ ているのか尋ねる機会を逸したが、まさか封切りと同時に映画館で観たはずはないだろう。特に宣伝されることも無しに、十年単位で年齢が隔たった人々の間 に、ファンが生まれ続けていることの理由は何か?

 ストーリーは、他愛が無い。人が生きたり死んだり、因果がめぐって誰かが幸運や悲運を 得たりする、偶然の因果がもたらす神秘性にも注意して作られた、コメディカルな映画である。マフィアの下っ端や、そのマフィアの下っ端の上司の女や、噛ま せ犬のようにも見える銀行強盗の夫婦、ボクサーなどが登場し、ひとつの場所に様々な人間模様を持った人が集まり、そこにどかんと事件が起こる。いや、どか んという擬音語で起こるよりは、本作ではひそかに蛇が張ってくるような事件が起こる。それらは決して表ざたにはならない、ぎりぎりの点で内輪でもみ消され るような事件である。

 

 こう言うのは良くないと本心では思っているが、日本人が好きなブルース・ウィルスジョン・トラボルタ、サミュ エル・ジャクソンが出ていて、たぶん本作は十年隔てた観客たちにとっても馴染みやすいものになっている。そしてコメディとして及第点は確実に取っており、 彼らの視聴時間は無駄にはならない。コメディカルなので楽しく観れるはずである。これが、私が無難に紹介するために白羽の矢を立てた理由である。ただし、 ユマ・サーマンハーヴェイ・カイテルはブルース・ウィスルほどには知らない人も居るかもしれない。

 それなりに有名な俳優をそろえ、ひとつの連続した時空間で人間模様を集めて事件を起こす本作は、群像劇の一種と見て良いだろう。群像劇はキャスティングとキャラクターを魅力的にする点さえ真面目に出来れば、ヒットすることが予想される。

  本作は、観ての通り円形に繋がったストーリーになっている(まだ観ていない人はこの意味がわからないだろうけれども、観れば必ずわかる!!)。そして、ス トーリーの他愛も無さが味方して、作品全体が共感しやすい作りになっている。その基礎的な柱の上で、本作が面白いのは円環形であるところである。

 そして驚くべきことに、次のことを私は自信を持って賭けられる。

 本作の良さは円環形であることだけである。

 

  信じられない人は、貴方がDVDで個人鑑賞していることを前提とするが、映画が開始したら4分50秒ほど飛ばし、クレジットタイトルから観始め、最期のカ フェでのシークエンスは飛ばされた冒頭のシークエンスと統合されたものと見做して鑑賞すると良い。絶対につまらないので、一度やってみると良い。すべての シークエンスは恣意的かつ突拍子がなく、そのために観ているとだんだんと全体が冗長に感じられ、最終的にはストーリーの結末すなわち落ちすらも不在とな る。この現象は、私が先に触れた白紙の上に描かれた非常に長い直線とまったく同じである。円環でないからつまらないのである。

 そこまでが直感的に理解されれば、円環形であることの映画の良さ、脈々と続くファンを獲得するに至った円環形の秘密とは何かがわかってくるだろう。

 実際に、本作はアカデミー賞脚本賞は獲ったものの、それ以外の賞はノミネートはされどすべて落としていることも、客観的に本作が円環形であることの意味を証明しているかもしれぬ。

 (その年のアカデミー賞作品賞は、「フォレストガンプ」であった。なぜか日本人には大人気の「ショーシャンクの空に」も同年にノミネートはされた。)

  しかし、一方でカンヌ映画祭パルム・ドールという栄光に浴した。私にはまったくわからない。私は、カンヌのパルム・ドールとはメッセージ性の極めて高い 作品が選ばれると信じていた。つまり、監督のメッセージを映画で具現化しえた実力に対して表彰されるものであると。『パルプ・フィクション』にメッセージ 性などまったく無い。この回のカンヌ映画祭自体は、賞がフィクションに堕した記念すべき年として永久に恥じ入られるべきであろう。

 絶妙なまでに好きなシークエンスは無いけれども、私が気に入っているものとして、良いのは掃除屋のシークエンスである。

  確かに、ユマ・サーマンが中毒を起こした直後のショットも印象には残っている。彼女は面長だから、横たわるとちょうどシネマ・スコープに綺麗に収まる。し かし、男を篭絡してその人生を破綻させるのかと思いきや、中毒で幕引きという、まさに中途半端なファム・ファタルなのである。ここまで情けないキャラク ターは、探してもあまり居ない。本来期待されるべき仕事をしていないのであるが、仕事をしないように監督のさじ加減で調整されている役どころでもある。

 本来は映画全体をストライキさせかねない彼女は、本作において逆にストーリーを回転させるのである。

(「パルプフィクション」物語前中盤:ジョン・トラボルタはマフィアのボスの女と楽しくダンスホールで踊り、調子に乗っている。この後、男は地獄を見ることになり、この映画の見所の一つとなる)