a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Babel (2006) - バベルのような役所広司の演技。

Alejandro González Iñárritu監督。

日本、モロッコ、アメリカ、その他さまざまな地域の人が因果関係で結ばれていた一つの出来事を描く。

一番演技が良かったのは、おそらくCate Blanchettであり、一番困惑するような演技だったのは役所広司である。

モロッコにて肩を銃撃されたCate Blanchettは特に麻酔をされることなく傷口を縫われる。「うわーこれは痛いぞ」と思わず口に出してしまうそうである。術後に多少おちついたBlanchettに対してモロッコの老婆がタバコらしき煙管を吸わせていたのであるが、知ってるなら縫う前に吸わせてやれよと思った。タバコや酒を飲むと、麻酔ほどではないが多少は痛みが鈍麻するので、麻酔が緊急に用意できない際は使うことがあるのである。そういった手順の良さを発揮できない点が、逆に現実味を帯びていて良いと感じた次第である。

東京にいた聾の菊池輪子であるが、演技が素晴らしかった。タワーマンションの最上階から見た景色に、聖路加タワーが西側から映っていた。私はこのビルなら見た事があるので。その架空のタワーマンションはおそらく月島か、もしくは豊洲にある。まぁストーリーには関係のない事であるが。役所広司の演技が困惑するというのは、まず冒頭のシーン。おそらく言葉が発せられる前から聾であった娘と、他者が誰もいない車内において、手話をしながら追って発音を繰り返すする姿は滑稽すぎる。彼女は聾だから、父親は手話をしながら、発音も丁寧に行う筈がない。これこそバベルの塔のような演技である。もしくは監督が手を滑らせたのかもしれないが。その後も不自然な父親像が続く。東京の親子のシークエンスのみ、著しく現実性を欠いている。

モロッコでは、問題の銃と、そして問題の兄弟(特に登場人物のユシフ)が現実味を持っていた。事件の発端とは、まったく意外な些細な出来事から起こるものである。その物語の始まりから終わりをモロッコにするかと思いきや、本映画は東京で終わる。因果の終わりから、始まりの地へと逆に進行する。その意外性が、監督の平凡ではない感性の現れであろうか。個人的にその流れは好きだが、因果の原因であった父親が裸の娘と抱き合うという、冷静に考えてみればよくわからない結末。ましてやバベルな役所広司の演技である。また、監督もあのシチュエーションで父親を焦らせようとしなかった。父親が娘の飛び降りを察知し焦り、鑑賞者の私たちにスリルを感じさせることもしないのである。