Lars von Trier監督。
兎に角、キリスト教の根源的な事象を、映画という手段で実写しきったという点が、本作の素晴らしい点である。
冒頭から原罪を悪びれもなく犯すシーンで、なおかつ子供が死ぬのだから、本作の名前のAntichristはダテではない。ただ人間の情事を描くだけなら対して問題はないが、その情事を子供や赤ん坊が見ているとなると、どんなにキリスト教の教義から離れた人でもとたんに気恥ずかしく、どことなく罪の意識に捕われるものである。
監督はキリスト教のことを良く知っている。
救済の可能性である情事の末の子供が死ぬのであるから、もはや登場人物に救済はない。そして実際に、本作において彼らには救済がないのである。子供とは、厳密には原罪に対する、唯一の救済としての存在である。原罪を犯しながらにして、救済が消えたのである。
本作は、宗教の正しい知識があれば、より楽しく観れるに違いない。
ただし、そういう見方をすれば、教養映画としては一流であるにしても、映画の感動や喜びの源泉は見いだしにくくなるかもしれない。教養が高くなければ理解できない作品とは、たとえ小数あったとしても、映画の主流にはなりえないからである。
もっとも、私は冒頭の音楽と描写の構図は好みではある。
第四章あたりがストーリーとしても面白い。そして最後にあるものを切り落とすのだが、そこに困惑する方も多いかもしれない。肉欲という快楽にふけっていたという事が、本作における事件やキリスト教として、根本的な問題点であったということである。
しかし、その根本的な問題を断ったとしても、人間は所詮人間。その機関を断ったところで、犯してしまった罪の意識は消えなく、神に転じることはできないのである。そして妻の曰く、「全てが無駄だった」。
題名はAntichristなのであるが、極めてキリスト教に親和的な映画。
A.Tarkovskyに捧げられたのももっともである。ただし、彼ならCGなど使わず実際に火を焚いたであろうが。 Willem Dafoeはなぜか蛭に吸い付かれることが多く、たとえば『Speed 2』でもそうであった。 Lars von Trier監督については、極めて真剣に映画をつくっており、やはり素晴らしいと感じた。