Lars von Trier監督。
小説を読んでいる時に、その読んでいる人の頭の中を覗いているのではないかというような作品。
そして、映画の感動が完全に失われた作品。いくらストーリーや感情を追うためには景色背景が要らないことが証明されたからといって、それは逆に映画の制限性を明らかにしたように私にはみえた。つまり、ストーリーや芸術性にかなう景色背景がなければ、多少なりとも映画は味気なく映るということ。これは、多少歴史観的なもしくは経験的な見方があるようにも思うが。
しかし垣根が物理的にないので、Dogvilleの生活を覗いている感覚は最大になる。
ひとつ奇妙なのが、どこかの家庭が家族団らんで夕食をとっている時に、別の家庭では丸裸でセックスをしているかもしれないのである。そんな当たり前なのだけれども、それを明らかにされると奇妙に思えてしまうという状況を、この映画は作っている。
かといって、その状況があるから本作が映画として優れているというのでもなく、また逆に劣っているというものでもない。あくまで、監督の感性が鋭いだけである。
小説があのように頭の中に再現されているとして、その実際とこの実験的映画の差とはどのような点にあるか。
人間は空想をする生き物だとでも言うかのような作品。他者が自分のことをわかってくれるという、無根拠な前提や空想である。
本作に登場する小説家は、自らが世界の規則ととってかわるという、倒錯した空想にふけっている。
彼の主眼とは、世界の秩序を整えることではなく、自らがその秩序の中心と化すことである。そして、あえなく失敗する。あたりまえである。
それにもまして可笑しいのが、疑惑に対してなぜか女が沈黙するという、不自然な人間描写。命を握られているからという説明があっても、いろいろと主人公の行動には不可解な点が残る。普通、多少なりとも人間性があるのであれば、たとえ命が危うくなるにしても、村を出て行くのではないだろうか。
なにかの制限を人間性に与えることで、かえって何かを表現しようとしているのであろうが、ただ、これだと恋愛はまともには描けないだろう。
恋愛は虚無な土台の上に立ち、なぜ小説家とグレースが愛を持っているのかという理由もわからぬまま、事実描けていない。
jump cutでは会話も飛ばせる。