a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Terminator Salvation (2009) - 音楽と効果音の、絶望的なまでのオーバーラップ。

McG監督。

このような迫力のある爆発を含む作品は、映画館か、もしくは自宅における大きなスクリーンにおいて視聴するべきだ。残念ながら、自宅の小さなTVの中で観た。

ハリウッド映画のある種類に典型的で通常3作品以上の連作の形をとっていて、人類がなにかの脅威と延々と戦い続けるというモチーフがある。実は共通のテーマとは、人類の家畜化という逆説的な憤りを感じる状況のことである。その家畜化とは、21cあたりから作家の間に蔓延してきたテーマであり、資本主義の中で自己を確立していくことができない、人間の苛立ちというものが反映されているように見える。そのため、『バイオハザード』における人間の生体資源化を目指したアンブレラ社であったり、『マトリックス』における人間のエネルギー資源化を実行したマシン群であったり、本作における人間の軍事利用化を目指したスカイネットが文脈的に創造される。これらはすべて、近代資本主義の中で原資となっている近代科学が、人間本来を浸食している姿に他ならないことに注目すべきであろう。そのような近代科学が浸食する意味では、部門の全くことなる日本アニメ界においても、ネットゲームのアバターが人間を襲おうとする『サマーウォーズ』も同一の系譜として語れるのかもしれないし、人間の開発したミサイルのネットワークが人間を襲うという発想は、むしろ『ターミネーター』のアイディアが転用された者であると指摘することも可能であろう。

ともかく、このような遠回りな資本主義に対する苛立についての連作の一部が、本作である。これらの連作には、その永遠と続き終わることの知らない闘争の中で、抵抗軍の英雄的個人がいる。それはジョン・コナーであり、アリス・アバーナシーであり、トーマス・A・アンダーソンである。そして彼らは、人類のほとんどが家畜化された世界に投げ出された結果、かならず放浪生活をすることになるのであり、その放浪が終焉した時間において、家畜化を平然と行っている敵に対して総攻撃をかけるのである。

このような典型について、資本主義に対する個人を発露できない苛立は、この時代において一時的なものであり、おそらく三十年後の世界においてこれらの映画を観た場合、どうにも救えないほどに古くさいものになっている可能性はある。それは現在において、戦時中におけるプロパガンダ映画や、男や女の立ち振る舞いが明確に決まっている昭和の日本映画を観た場合に、その時代を生きていない世代が感じるとっつき難さとして映るのではないだろうか。

この監督は映画の赴きというか、映画の良さというものを絶望的なまでに欠いていると私は感じた。

金属的な効果音が、背景の音楽とまじって音楽の方が何がなんだかわからなくなっている。また、古来的なフランスの技法を比喩的にもちだすわけではないが、作品を通じて筋に対する場所の移動に対する描写があまりにも断片的に飛びすぎており、三一致の法則に対して決定的に無知である。その法則を知っていてそれを逸脱しようとする立場の作家ならまだしも、決定的に無知ときているので、私はただだまって口をつぐんでいるしかない。