a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

秋刀魚の味(1962) - これが小津の遺作と知って観ると、悲しさがこみ上げる。

小津安二郎監督。

あまり映画本作の外の感傷を混同させるべきではないが、映画の天才淀川長治など映画本体から飛躍した知識で感動を語るから、まぁ良いだろう。本作が小津安二郎の遺作であると知れば、バーで流れる軍艦マーチも、最後廊下の奥の部屋で酔っぱらいながらうなだれる笠智衆も、全部悲しいのである。軍艦マーチなんか懐古的でノスタルジックだし、そんな個人の歴史を感じさせる音楽で笠智衆がたのしそうに笑っている。そんな彼が、誰もいない家の奥で泣いていたら、そんなの悲しいに決まっているではないか。そういった感情的な同様が、逆に映画作品に感動する源泉なのかもしれない。つまり、映画の知識人もしくは知識人ぶった人だけに許される、映画感動の快楽である。

『お茶漬けの味』のように、ストーリーがその小品へと収斂するという作品ではない。もし「鱧の味」というタイトルになっていたら、ストーリーはまったく異なる方向になっていただろう。本作のストーリーとは、娘は結婚するという方向へ向かい、父は必然的に葬式のような悲痛な感情を受難する、というパラレルで逆説的な感動と不感動の状況推移である。別にひょうたんが鱧の味を知らなかったというのは、小津の遊びの部分なのであって、その味を知らなかったこととタイトルである『秋刀魚の味』に意味深い関連性を見いだそうとすべきではない。

映画音楽に関して、ラストが非常にわかりやすい。ラストシークエンスからエンドへ向かう音楽は、みっつの属性の音楽がなめらかに連結している。それは、軍艦マーチにはじまり、孤独な感傷へうつる。これが何と連動しているかは明白で、酔っぱらって軍艦マーチを口ずさむ笠智衆のつかみ所のない気持ちが、ふと酔いから冷めたのかどうなのか、急に孤独の気持ちへと推移したのである。この感情の変化は、笠智衆とおなじ我々人間であればどこかで経験したことがある筈であろうし、故にこの音楽をまともに聞きながら映画を観れば、その感情の転調に鑑賞者も同様を隠せない。その悲しい転調から、一期にエレガントなエンドへとつなげる、悲しさの余韻の残す映画音楽の演出は、確実に理解しておこう。