Dialogue avec un produit de consommation「消費社会の産物との対話」という
ショットが5分間続くことが印象的である。映画とは人間の意識を切り取るもの
であり、映画の世間への発表とはすなわち意識を社会観念へと対決させること=
哲学なのである。丁寧にナレーションによって説明している。そのため、哲学が
わからない人間にとっても本作が登場した意味がわかるようにしてある、親切な
映画なのである。
ところで、今の日本は哲学が要らない。社会との対決に必要となる、意識自体が
存在していないためである。それは喜劇なのか悲劇なのか、豊かさの結果である
のかそれとも意識を手放した結果として今が豊かであるのか、様々な考えようが
ある。その文脈を掘り下げることは哲学の本旨なのであって、映画評論の本旨で
はない。であるから、ここにおいてはこれ以上哲学を掘り下げることはできない
。一方で、本作を観て感受できるとおり、監督の意図する本旨とは哲学にある。
「映画評論殺し」とは正にこのことである。