a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

Matilda (1996) - 誇張と極論による映画を観る。

Roald Dahl原作

映画原作の御用達であるRoald Dahlの原作である。主人公が超能力をもってガラス容器を割り、そこに閉じ込められた動物が悪役のもとに飛んでいき、悪役がてんてこ舞いをする。このシークエンスは、『ハリーポッター』シリーズに同じ要素が含まれているのであるが、本作が原作・映画ともに先に世の中に出ている。

子供の創造性をほめたたえ、一方では彼らの才能を無慈悲にも台無しにする大人をテーマにしている。そのため、前者についても後者についても、その要素を最大限に誇張することによって、悪役と善役の見分けが明瞭であるストーリーを形成している。それぞれを誇張するので、敵と見方は互いに話合っても理解することができず、結果として武力対決によってどちらかが排斥される。排斥されるのは、決まって敵側である。絶対に主人公が排斥されてはならない。一般論として映画には、主人公がハッピーエンドとなるものと案ハッピーエンドになるものの両面性を持っているが、ある概念を登場人物を通して誇張することによって成り立つ映画分野に限ってはハッピーエンドのみしか存在できない。

本作でも、登場人物すべてが、ある性格一点において誇張された人物として存在していることがわかるであろう。主人公のよき味方であるやさしいMiss Honey先生ですら、過度に誇張された人間である。よく考えれば、過度に自分の過去に固執しており、それを自分の力では解決しておらず、しかお会って間もない主人公に心理的に入れ込んで相談してしまう教師である。あまりにも弱い。子供の想像力と行動力を賞賛するために、想像力と行動力を過度に欠いた弱い大人として配置している。これら過度な登場人物たちによって作られる結末とは、すべて極論として終わる。

なぜ、本作よりも後に世に出た『ハリーポッター』の方が断然に売れたのかという点に関して、またいずれ考える日が来るだろう。