a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

るろうに剣心 (2012) - スローモーションで速度をごまかす技術について。

大友啓史監督。 「るろうに剣心」という漫画があり、それがアニメにもなったのであるが、遂に実写化された作品。 この漫画は、かなりのヒットを記録していて、幅広い世代にかけて人気がある。  

漫画やアニメでは、それこそ空中で回転しながらの斬撃だの、平突きで一直線に数十メートル飛んでくなど、とにかく動作が俊速であるものばかりだった。 漫画なら、静止画なのでそもそも考慮する必要がない。 アニメであれば、物の速度なんてものは自由に操作して描写できる。だから、やはり問題はない。 映画だとそうはいかない。実物の速度はどうしても変えられない、特に生身の俳優の場合である。 どうするかというと、スローモーションのシーンを入れて、時間の流れが縮まったように見せて、相対的に役者の速度が速いように見せかけている。 すごい時には、スローモーションを入れた直後にわざとフィルムを早送りに編集すると、あたかも「ずっと速いですよ~」と主張せんばかりの勢いで俳優が画面の端から端へ飛んでいくことになる。 佐藤健も、吉川晃司も、ぴゅんぴゅん飛んでいく。そして、問題の江口洋介(斎藤一役)も飛んでいく、、 小学校で習った「速度×時間 = 距離」を応用した、トリックである。映画では時間を操作して、速度を変える。凄くスマートな技法だ。  

終始そんな感じなので、私はアニメを現実にするとこうなるのかという感じで、臨場感にあふれていると思った。 次、ストーリーについて。

当然の事実ながら、膨大な巻数を持つ原作に比べて、映画は2時間程度という時間的制約があるので、ストーリーを時間内に完結させるためには適宜内容を変えなければならない。 その変更がファンの許容範囲を超えるかどうかは、創作してみなければわからないという性質がある。 ただ、原作の威光を踏襲して映画化するからには、ある程度の敬意をもって原作に忠実になるのが、創作家としての矜持であるように感じる。

これはあくまでも、個人的な意見であるが、実際に映画でもオマージュがあるように、既出の作品に対して敬意を表するのは映画界では通例となっている。

ストーリーや人物設定が本作と違うのはご愛嬌で、あまり触れない。 言い出したら切りがないし、斎藤一がかれ離れているのは、本来触れてはいけないのである。顔の輪郭見たらミスキャスだとわかるだろ、とは思ったが。 ただ、言いたい。 漫画やアニメをみると、原作で斎藤一は非常に顔の細長い弥生人系の顔立ちの人物なのである。なぜ縄文人系の顔立ちのキャストをするのか。 彼は原作をしっかりと分析して引き受けているのだろうか。まるで、原作のキャラクターというものを知らないかのようであった。有名原作を踏襲する限り、最低限の踏襲をするのが本来の流儀である。 ただし、「牙突」という平突きで一直線に数十メートル飛んでくという技があって、本作では実写されているのだが、それがかなり残念な出来であったのは同情する。今の映画技法でも、さすがにきびしい。 唯一、個人的感想であるが、香川照之の「武田観柳」は秀逸であった。原作を崩さずに新しい解釈を加えている。彼の演技は、いつ観ても素晴らしい。彼はハイスペックな一流だ。

映画の臨場感について、本作では先述のスローモーションにしたり、ハンドカメラで意図的に撮ってでうまくごまかしている。これらによって、時が遅く見える錯覚を産み出す。 ハンドカメラで撮ると、画面がゆらゆらとゆれるので、喧騒を表現するのに適している。他にもいろいろ効果はあるが、本作では喧騒を表現するぐらい。 非現実的な視覚体験を、鑑賞者にあたえるためである。 そういうのが体験したくて、アクション映画を観たいというのも、ある。実際に、よく出来ている。ハリウッドの映画技法の域には到底達していないが、それでも日本の映画としてよい出来である。

どうも足下を撮るシーンが好きな監督の様子である。何回も、足下を撮っている。しかし、私が思うのは、足下のシーンが観客に惹起するのは、その人物の実体が不明である場合に「どんな人なんだろう」を興味をじらす効果のためであると思う。 その点、監督は既知の人物に対して、何回も足下のシーンを撮っている。これはあまり意味がない。あと、横顔のシーンばかり撮る癖がある。時々正面アップもランダムに加えないと、シーン全体が単調になる。

総論として。

個人的には、結構視覚効果でたのしめた。

アクションはなかなかのもの。ヒットする理由もわかる。

ただし、京都大火編を劇場でみるかどうかは、まだ考え中。