a-moviegoer’s diary

2014年から1日1本の映画を観ていて感想を書き溜めています。そして今年通算1000本を観ました。これからも映画の感想を溜めていきます。東京都内に住んでいます。

The King’s Speech (2010) - 吃音の克服なるか? 音楽の使い方が典型的な映画。

Tom Hooper監督。

本作は主人公が吃音を克服し、宣戦スピーチを行うというストーリーである。最後にスピーチを行うシーンがあるが、戦争という生々しい邪気が発せられるという不穏ではなく、正確にスピーチすることができたという喜びが勝って映画が終わる。歴史の裏舞台を観ているような、個人の内面を観る様な映画である。主人公にとっては、吃音と対峙するところからすでに戦争の前哨戦が始まっているのであった。

もっとも、映画音楽の使い方が明瞭にわかるのがこの映画である。

冒頭、主人公が大勢の前でスピーチをする。しかし彼は吃音持ちなので、スピーチの開始を知らせる赤いランプにすら緊張をする。その緊張は、流れる音楽によって表現されているのだ。華やかな競馬場を描写するような、英国風の優雅な音楽がながれている。しかし、その音楽がとぎれて、緊張をさそうような不穏な音楽にきりかわる。音楽とは部分的には個人の感情の描写である。では誰の感情の描写なのか。始めは、吃音持ちの主人公の感情描写だ。しかしいざ彼が吃音まじりでスピーチを開始すれば、それを聞く会場全体の不穏な空気がただよう。もしかしたら、不穏な音楽とは、途中からはそんな不穏な空気をかもす主体である観客の感情描写である。映画で流れる音楽のうち、感情を表現する音楽が流れている際には、はたして誰の感情を描写するものなのかを頭にとめるのが良い。極めて明瞭に映画を感受できるようになるだろう。

ところで、形而上の音楽で何を表現しているのかといえば、映画世界における物理学上に発生していないものの何か、である。それは古い歴史上は哲学の考察する分野であった。その中で確かなのは、人間の持つ意欲である。しかし、人間の意欲の形が如何様なのか、人間の表情をみただけでわかるはずもない。

さて本編で、どの方法を試みても吃音が治らない主人公は、厳格な父親にきちんと喋るように叱咤される。しかし、そのように言われても彼は吃音が治る筈もないことを知っている。彼は諦めているのだ。諦めているところにストーリーが発生することはない。その中で、ある言語療法士とのセラピーで録音したレコードを聞くと、なんと吃音が治っているではないか! その時点で、初めて主人公の心の中に、諦めから生まれた希望が、そして意欲が生まれる。そういう場面において、本来的には、映画音楽の使用用途が生まれるのである。

正確に述べれば、その音楽とは主人公自身の意欲もしくは意識をあらわす形而上の音楽であるが、その音楽が発生している目的とは映画観客が主人公の意欲や感情を要所要所で確認し、主人公のストーリーに安定して共感するためである。

また、映像上で雰囲気が演出できなかった際にも、音楽を使う。

本作でいえば、陛下が死亡した場面でのシークエンスである。この場面では、王室の親族たちが死を看取ったのであるが、突然に死の場面へと画面が映ったために、画面のみでは雰囲気演出に十分ではなかった。