溝口健二監督。
監督が精力的に実際の日本社会を切り取って撮影していた時期の作品のひとつ。映画書評の多くは、本作を契機として日本映画のリアリズムが社会に許容されるようになったと指摘している。
「会社なしのお父さんなんて、無いほうがマシや」という娘の台詞があり、当時の日本の状況を伝えている。お父さんたち、日本のサラリーマンたちが必死で働いているから、日本がかろうじてうまくまわっていたということである。お父さんから会社をとったら何ものこらない。お父さんたちの価値は、働いているからこそかろうじて保たれているということである。
さて、その上で山田五十鈴演じる女が、父や恋人に貢ぐために男をたぶらかし、ばれて両方からそっぽを向かれ、結局なにも残らない。「わてのこの病気はどないしたら治るんやろか」と通りがかりの医者に聞くと、「そんなもの医者はしらん」と。病気とは、当然のことながら暗喩である。一体女はどんなにして生きて行けばよいのかと、切ない。これが浪華悲歌(注; なにわえれじい、と読む)の名前の由来である。
二人の会話する人間(たいていは男女)を、直線上で歩かせて、その様子を横から平行して撮影する。その手法が溝口監督の優れている技法のひとつであるが、本作でもその片鱗がみられる。『雨月物語』や『西鶴一代女』の後作になれば、その手法はさらに洗練されている。
その他のショットには、溝口健二のレベルあまり洗練されているものはあまり感じない、ただし、世間一般の映画監督のとるものと比べたら、格段に本作の方が撮り方が上手である。そもそも監督のレベルが非常に高いのである。彼のどの作品を観ても、はじめに観るのであればそのショットの巧さに多少なりとも感動を覚えるはずである。
ロングショットを多用している点も、この時期の他の監督と比べた特徴になる。浄瑠璃をそのまま映すシークエンスがあり、その裏で浮気者の夫と奥さんとの事件がひっそりと進行している。そんな対比もまた優れている一作である。